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| 第107回 |
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友人を通して面白い記事を教えてもらったので、さっそく「筆取前話」の中で紹介したい。
その記事は、2005年5月発売の「諸君/6月号」(文芸春秋社)の中にあった。「BOOK PLAZA/本の広場」の「今月の新書完全読破」の項に、な、なんと飛鳥本が紹介されていたのである。そ、それも“今月のワースト”として!!(苦笑)
選者は、「朝まで生テレビ」などで頭角を現してきた若手評論家の宮崎哲弥氏。平成4年から活動し始めた昭和37年(1962年)生まれで、「わしズム」などでも執筆活動を行っている。
この号では「仏教」に関する新書をまとめ読みした感想が述べられ、宮崎流でのランク付けがしてあった。
トップ1は「いきなりはじめる浄土真宗」(本願寺出版社)で、難解な仏教書を新書でまとめた功績を大きく買っている。それはそれで、中道が好きな日本人には受けがいいだろうが、だからといって今の日本で売れる本とも思えない。
売れる売れないで正当な本の評価はできないだろうが、それにしても葬式仏教の教義をいくら紹介したところで、今の日本人が仏教に帰依するとは到底思えない。
さて、今回の本題に移るとしよう。
P278下段の冒頭部分から・・・・・
『オカルト本、擬似科学本のスター、飛鳥昭雄の著作など論っても仕方がないような気もするが、本書でこってりと展開されている』
ううう〜む、スーパースターでなかったのが少し残念♪
現代科学は、中世ヨーロッパのオカルト的「錬金術」から始まったのだが、いいのだろうか、オカルトを軽く見て論っても仕方がないと言っても。電気もロケットも無線も,当時の常識を逸脱した非常識な人々によって発見されたはずなのだが・・・・・いいのかな?
もし欧米でこんな発言をしたら最後、欧米文明の根幹否定となり、評論家としての信用など一気に霧散するだろう。常識以前の問題だからだ。
中世において擬似科学だった「地動説」が、アカデミック的な「天動説」を引っくり返した欧州に対し、疑似科学を全面否定する論調は大変失礼ではないだろうか。
世界の僻地の島国(日本)でしか通用しない評論家なら、それでもいいのかもしれないが・・・・・。
『支離滅裂な仏教論(?)にはさすがに呆れ果てた』
キリスト教的立場から「原始キリスト教」の時空を超える範囲の広大さは論じても、仏教論を述べたことは無いはずだが、はてはて?
それから、宮崎氏がいう仏教論とは、大乗仏教、小乗仏教、チベット仏教・・・・そもそも簡単に仏教論と一くくりにすること自体が、仏教をあまり知らない証拠ではないだろうか。
それから、理解できないので呆れ果てたというのでは、プロの評論家としての仕事をしていないだろう。
『とくに観音菩薩=シヴァ=ヴィシュヌ=クリシュナ=イエス・キリストと、無理な付会を重ねて』
俯瞰で見れば決して無理ではない。オカルトの歴史を知らず、疑似科学を軽視する視野狭窄では確かに分からないかもしれない。
せめて“イエス・キリスト=クリシュナ=ヴィシュヌ=シヴァ=観音菩薩”と書けば、なかなかと思うが、宮崎氏の評論は「地の目」の域を出ないようだ。
『まったく異なる神様を等号で結んでしまう神経には凄みすら覚える。』
「まったく異なる神様を」という言葉の裏に、「人が神を創った」とする哲学者フリードリヒ・ニーチェの影響が垣間見える。
だから人(民族)の数だけ神がいる理屈になり、「神が人を創った」とする逆の可能性を論外とし、安易に否定して弾き出してしまう。だからこれを地の目という。
「天の目」から見ると、人類に関わる絶対神は唯一であり、世界中の民族が唯一神をそれぞれ別名で呼んだことになる。
しかし、これは宮崎氏の責任ではないだろう。戦後の日本教育がソ連共産党と中国共産党の影響を受け、「無神論」で統一教育された文部省教育のせいである。日本で無神論者が今ほど激増した時代は、敗戦後のわずか60年だけだ。だから日本人の無神論の歴史は非常に浅い。
せめて宮崎氏が“凄みを感じた”という点で、飛鳥説に脅威を覚えたと解釈しておこう。
『主にチベット仏教が出しに使われているが、その筋の専門家は座視していてもよいのだろうか。』
この最後の文章を見れば、バカバカしいと思うなら、無視していればすむことだ。しかし、座視してもいいのかと警告する以上、飛鳥説を怖れていることになる。
だから、“その筋”に向けて信号を送っているのだ。
しかし、この程度のことで怖れられては困る。
飛鳥説では、「ユダヤ教」のヤハウェ(エホバ)、「イスラム教」のアラー、おまけに「神道」の根幹である天照大神までが、イエス・キリストと同一神と証明しているのだから。
もし宮崎氏がその部分まで知ったなら、その場で卒倒していたこかもしれない。だから仏教だけで飛鳥説に脅威を感じてもらっては困るのだ。(苦笑)
もっとグローバルに見てほしい。
近未来において、バチカンの(地の目の)戦略により、世界中の宗教が平和の美名の下に手を結んで、宗教の統一へと向かっていく。
一方、天の目により、唯一神の元に様々な宗教、宗派に属す人々の改宗が一斉に始まり、「集合」となって発展していく。両者は同じに見えても方向性が全く違い、結果、天に属する勢力と地に属する勢力に二極分離する。■
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| (05/05/24) |
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