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 最近よく思うことなのだが、日本人とアメリカ人の違いが何となく自分でも分ってきたような気がするのだ。いや言葉を変えれば、アジア人とヨーロッパ人の違いかもしれないし、日本人と白人の違いと言う方が正確なのかもしれない。

 とにかく痛感することは、白人の“チームプレイ意識”の徹底した凄さである。連中は個人主義の塊のような人種なのだが、いざとなれば徹底したチームプレイに徹する。それは和をもって尊しの日本人の比ではない。

 たとえば、日本にはスポーツという文野は生まれなかった。生まれたのは武道だけである。最近では「相撲」をスポーツ番組でダイジェストとして見せてはいるが、そもそも相撲とはスポーツではない。神事であり武道である。武道そのものが殺し殺される個人業に徹する必用でそうなるのかもしれないが、日本人は個人プレーに徹することを好むようなのだ。

 ところが白人は、武道からでもスポーツをどんどん作りだし、チームで闘うスポーツとして楽しむようになっていく。サッカーの紀元をインカに置く者もいるが、私はサッカーのルーツはインカと思わない。

 ベースボールにしても、日本では野球という武道になってしまう。昔、阪神タイガースを優勝させたランディ・バースが子供の手術で帰国すると、阪神タイガースは仕事の場に家庭を持ち込むなとして即刻首にした!

 つまり、どう言い訳しても日本人は野球を武道に見ているのだ。新しいスポーツならそれほどでもないのだろうが、これは日本人特有のものなのかもしれない。

 漫画にしてもそうである。最も典型的なのはウオルト・ディズニーと手塚治虫だろう。ディズニーはミッキーマウスを作ったが、自分で何もかもを描いたわけでもないし、ミッキーマウスをこれほど有名にしたのはディズニープロに在籍した集団の総合力である。

 一方の手塚治虫は、個人的プレーに徹した天才である。後にアシスタントを多用しても、主人公や登場人物の主線(おもせん)はよほどでないと他人には任せないし、ストーリーは全て自分の頭一つから搾り出した。

 勿論、ディズニーはアニメ畑、手塚治虫は雑誌・単行本畑といえばそれまでだが、アメリカの漫画の主人公たちは、たとえ生みの親がこの世を去っても、誰かによって引き継がれていくため、殆ど永遠不滅なのである。

 ところが日本では違う。「ドラえもん」だけは小学館にとってドル箱なので、漫画は誰かの手によってつづいているが、それ以外は作家の死と共に新たな作品が別の作家によって続いて行くことなどは殆ど無い。第一に、その漫画はその時代だけのものであるというレッテルを出版社や読者自身が貼りつけている。

 もう一つの典型的な例は宮崎アニメだろう。宮崎作品は必ず観るが、スタジオジブリの他人の作家の作品ならどうか分らない・・・・言いかえれば、宮崎駿の血と肉が投入された宮崎作品だからこそ観客は見に行くのだろう。ジブリ作品だから見に行くのではないのである。

 ところがディズニー作品は違う。今でもディズニープロの作品だからこそ皆が観に行くのである。なぜならディズニープロの才能を総合力を信頼し信用しているからに他ならない。たとえ盗作があっても、カバーしても余りある演出などの部分が桁違いに凄い為、似ていてもどうでもよくなるのだ。

 手塚治虫以外の人間が「ブラックジャック」や「鉄腕アトム」をいくら描いても、手塚ファンはソッポを向くだけだろう。なぜなら手塚治虫自身の手による血肉の通った作品ではないからである。ここに日本人とアメリカ人の違いが明確に現れている。

 アメリカはそうではない。「バットマン」や「スーパーマン」などは今でも新しく本が出つづけている。その点、日本人の場合はその作家一代の死で大方が終ってしまうのである。一体この違いは何なのか?

 テーマパークを造らせても日本人は救い難いほどに下手である。橋でも道路でも箱物を作るのは得意だが、継続させる為の知恵と才能が全く欠如しているのだ。つまりハードばかりで肝心のソフトの才能が無い。だからリピーターも生まれず、一度行けばそれでいいやとなり、結果的に次々と潰れるのである。

 申し上げておくが私は故意に極論を言っているが、その方が両者の違いを鮮明にできるからだし、極論は案外マトを射るからである。

 総合的なチームプレイに徹し、格分野の専門家や才能の持ち主を大集結して全員の力で効率よく最大の効果を上げる・・・これが個人主義に徹した白人社会のもう一つのDNAの姿だ。今回のアフガニスタンにおける戦争のやり方、ニューヨークでの連体感もそうだし、アポロ計画におけるアメリカの一団決心は尋常ではない。

日本映画が駄目になったのも、寅さんシリーズでも分るように、主人公の俳優が死んだらそれでお終りなのだ。第一、日本映画は昔から特定の俳優だけで売ってきた歴史をもっており、ハリウッドのように総合マルチ戦略を全く取らなかった。そしてこのテイタラクである。

そうなると、どういう弊害が日本に起きるかだが、例えばライト兄弟よりも先に完全な飛行機を設計した天才が現れても(実際にいたのだが)、その人物の才能を見抜く人間が誰もいない。その人間だけが突出するだけで、その人間をカバーする人間がいないのである。

 だから日本人は多くの発明や発見をしているにも関らず、コンピュータの基本システムにしても、全く同じものをマイクロソフトに奪われてしまったのだ。原因はその才能を見抜く人間が日本に誰もいなかったからだ。

 だが、日本人で才能がある者は、アメリカに行けば忽ち頭角を現してくる。才能と努力さえあればノーベル賞でも簡単に手に入れてしまえる体制が今のアメリカにあるからだ。なぜなら白人は個人主義とチームプレーの両面において、非常に優れた才能を持っているからである。言いかえれば才能のある人間を見抜く力に長けている。だからこそ大冒険時代に七つの海を支配でき、現在も世界を実質的に制覇できているのだろう。逆にいえば、日本人の世界制覇だけは絶対に有り得ないということだ。勿論そんなものを望みもしないのだが・・・・。

 そう言えば、バガボンドの宮本武蔵は個人プレーに徹した行き様を貫いている。そしてそれが日本人に馬鹿受けするのだ。おそらくアメリカ人が見ても面白いはずだが、問題は何か日本人と白人(敢えて白人とする)の間に、DNAのどうしようもない壁があるような気がすることだ。一番いいのは両方の間に生まれた子供なのかもしれないなどと、つい不謹慎に考えてしまう今日この頃なのである。
(01/12/07)
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