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※本所七不思議
「明かりなしの蕎麦」より
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日本の妖怪

明かりなしの蕎麦
 今回も「本所七不思議」を取り扱ってみよう。話は「明かりなしそば」、または「消えずの行灯(あんどん)」である!

 江戸時代、本所南割下水近くに、夜になっても全く行灯(あんどん)に火がついていない無人の蕎麦(そば)屋の屋台があった。日がとっぷり暮れた寒い夜、客がソバを食べようとそば屋までやって来て、店の主人を呼ぶのだが、いつまでたっても主が出てこない。
 そこで客が、これでは商売に差し支えるだろうと気をきかせ、わざわざ火打石でカチカチと行灯に明かりを点けてやっても、なぜかすぐに火は消えてしまう。結局、このそば屋に訪れた客はあきらめて家に帰るのだが、なぜか、その後きまって客の家では凶事が起こるのである。

 この時代のそば屋は、いわゆる「二八そば」という品を売っていた。二八そばの起こりは享保年間とされ、『享保世説』 の享保13年(1728年)の記述の中に、「仕出しには 即坐麦めし 二八そばみその賃づき 茶のほうじ売」という戯歌がでてくる。
 他にも『衣食住記』という江戸時代の文献の中に、「享保半比、神田辺にて二八即座けんどんといふ看板を出す」という記述もある。よって二八そばは、ほぼこの頃に登場したと思って間違いないようだ。

 ところで、二八そばの呼び名だが、考えてみれば結構奇妙な呼び名である。語源には何か意味があるのだろうか。じつは、二八そばの語源には二つの解釈がある。
 ひとつは、「二×八=一六」の語呂で付けられたというもので、当時のそば一杯が一六文だったことから付けられた名称という。これがいわゆる「代価説」であ、洒落の分る江戸っ子なら確かにそれぐらいは通じたかもしれない。

 もうひとつは、そば粉八割につなぎの小麦粉二割を混ぜたもので打ったそばを表したものという「混合率説」である。じつは今もこの比率がそばの基本であり、それが色の黒いそばを作っている。最近では、色白そばと称する「一九そば」なる物も登場しているが、何と言ってもそばは二八とされる。

 更に、両者を取り入れた「折衷説」なるものがあり、そばの値段が二〇文を超えた慶応年間(1865〜68年)を境にして、それより前の時代が代価説で、後の時代が混合率説をするものだ。

 ところがである、前述したように混合率だけで言うなら、そばでも当時から「二六そば」「三四そば」というものがあり、混合率と全く無関係な“うどん”にも、「二八うどん」なるものがあった。最近では、うどんに米が使われるようにもなったが、元々うどんは小麦粉だけで作られる。そう考えると、混合率説をとるのは相当無理があることになる。一方の代価説であれば、二六そばも三四そばも一杯が「二×六=一二」「三×四=一二」で一律一二文だったこともあり、どうやら真相は代価だったことが分る。

 ところで日本人は昔から数を生活の一部に取り入れてきた。たとえば現在の暴力団だが、昔はヤクザと呼び、「八九三」の数字を当てた。ヤクザといえば江戸時代から御法度である賭場の経営で知られ、サイコロを使う「丁半博打」が最も有名だが、「花札」も江戸時代には賭場で結構行われていた。
 「おいちょ」「かぶ」「おいちょかぶ」とも呼ばれるが、場を仕切る親の配る札を、子である参加者たちが、札の合計数の一桁目が「9」になるよう、親から札を求めるのである。だが三枚目が最後札となる為、それでしくじれば子は敗北する。

 ところが、最初の札が「一」で、次の札が「九」なら「一+九=一〇」で、下一桁が「零」となる・・・・そこで次の札を求めるのが素人で、これは「子の九一(くっぴん)」と言って、たとえ親が「九(かぶ)」を出しても子の勝ちとなる数なのだ。
 一方、親にも“無敵状態”となる数があり、それを「親の四一(しっぴん)」と言う。親がこれを手に入れたら最後、子がいくら「九一」を当てても負けてしまう。
 勘のいい方ならこれだけで気付かれたかもしれないが、「一」を「ピン」と呼ぶのは「最初(最初の数字)」だからである。

 また、殆どネコババと同然なので「ピンはね」という言葉がここから生まれた。更に「四+一=五」が最高値なのは、ユダヤ密教の「ゲマトリア(秘数)」で「五」が三行三列三斜の、あらゆる数並びの中央の数で、ゲマトリアの最も要になっているからだ。「七五三」を見れば分るはずだ。これは、カッバーラの「生命の樹」の図表であれば、中央の「ティファレト(美)」を表している。
 数字の五だが、ただの五では駄目だ。「四隅(四)と中央(一)」を支配する「メルカバ」でなければならない。同様の構造は古代中国の教えにある、中央の泰山を中心に東西南北の山を神領とした「五名山思想」である。
 更に言えば、花札三枚で全てが終るのを「仏の顔も三度」という限界でも同様に示されている。

 では「八九三(やくざ)」はどうかといえば、「八+九+三=〇」で全てが「チャラ(お終い)」になった人間のことを指すゲマトリアになっている。つまり日本人は何も分らずにゲマトリアを当然のように使い分けている民族なのである。言いかえれば、この構造を大昔から正確に作り上げ、管理している人間たちがいるということだ。

 「二八そば」に話を戻そう。
 代価説が正しいと判明した以上、当然だが「二×八=一六」となる。これはゲマトリアでは更に数を分解せねばならず、「一+六=七」で最も聖なる神の数「七」となる。安息日が七日目であることを思い出せば分かることだ。
 その数の店の灯りが消えている以上、これは非常に恐ろしい状態を意味する。つまり神から見放された有様である。四方が暗黒であり、主(あるじ)である神がいないのだ。客とは、神の住まいに訪れる人間を意味し、火打石を幾ら叩いても灯りが燈らないのは油に問題があるに他ならない。あるいは行灯の皿が取り上げられたのか。
 つまり、その人間は神の屋敷に入れてもらおうとしたが、油が切れて入れない状態であることを示唆している。あるいは切れた油を買いに出かけたが、戻ってきた時には手遅れだった・・・だから客である人間は“災い”になった。これを日本人は、油が断った状態を示す「油断」という言葉で戒めている。その為、本来なら「七」に入れたはずが「二+八=零」で人生を棒に振った有様へと落ちるのである。

 この譬え話は、『新約聖書』の中でイエス・キリストが語った「十人の乙女」の記述として残されている。
 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。」(『新約聖書』「マタイによる福音書」第25章1〜3節)
 本来なら、メルカバの中央である「五」に入れた者(信者)を、譬え話の中で数字のゲマトリアでも暗示されている。このように日本にはヘブライ文化が隅々まで浸透しているのである。気付かないのは当の日本人なのだ。

1:ろくろ首 2:提灯小僧 3:天狗 4:鬼 5:一つ目小僧
6:河童 7:九尾の狐 8:鵺(ヌエ) 9:猫又 10:龍
11:のっぺら坊 12:人面樹 13:足洗い屋敷 14:狸 15:送り拍子木
16:灯りなし蕎麦 17:片葉の葦 18:おいてけ堀 19:落ち葉なしの椎

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