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日本の妖怪 一つ目小僧 |
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一つ目小僧というと大体が寺小僧の姿をしてい
て、長い舌を出してそこいら中を走り回る姿が連想される。
しかし、一つ目小僧は元々は一本足だったようだ。
以前、別の所で奇形と関連づけたこともあったが、今回は少し別の角度から分析してみたい。
一つ目と一本足と言えば「空傘お化け」も同じだが、このルーツは「記紀神話」まで逆上ることが出来る。
天目一個神〔アマノヒトツノカミ〕という神がそれで、鍛治の神で一眼一足の神である。 この神の祖先は天照大神と対峙した荒ぶる神の須佐之男〔スサノオ〕であり、実際に出雲大社の付近では、大きな一つ目の鬼が住んでいて人を一口で食らうという伝説が残されている。
この当たりに何かが隠されているような匂いがする。
面白いことに、一つ目小僧(物の怪)を昔に逆上れば逆上るほど人々が本気で恐れていたことが分かってくる。
というより、一つ目小僧は昔に逆上るほど”巨大”になっていくのである!
平安時代に現れた安義橋〔アギノハシ〕という一つ目の物の怪は、馬上の武者を追いかけて食らうほど大きかったとされる。
また『百鬼夜行図絵』に登場する日照り神(旱母)も、大柄な体に一つ目の一本足だった。
そこで人々は、一つ目一本足の物の怪を追い払うために何したかというと、柊〔ヒイラギ〕や目籠を軒下に吊るして災いを避けたとされるのだ。
柊は葉に棘があって追い払うのに都合のいい葉のイメージだが、目籠となると首を捻ってしまう。
目籠で連想できるものといえば、せいぜい文字を入れ替えた”籠目”ぐらいしかないだろう。
では何故に昔の人々が一つ目小僧を恐れたかは、一つ目一本足の容姿からも大体は連想できるが、果して一本足の生き物はこの世に存在しているのだろうか?
ミミズや蛇は脚がないし、鳥は二本脚だし、昆虫は六本脚で蜘蛛は八本脚だ。いや、元々奇数の脚をもつ生き物などは存在しないのである。
・・・・いや、果してそうなのか?
樹木は”一本脚”である!!
「茎は胴であり脚まで象徴できるのか」「根が脚ではないのか」と様々な意見はあるだろうが、足から根が生えた等々の表現もあるように、見た目には樹木の足は一本足なのだ。
となると一つ目小僧の祟り封じに”棘”と”籠目”を用いる風習は、イエス・キリストの磔刑と無関係とは言えなくなってくる。
実際、イエス・キリストが掛けられた十字架は樹木を象徴しており、だからこそ生命の樹には青銅の蛇が掛けられている。
同様に「記紀神話」では天照大神を蘇らせる為、榊を立てて鏡を引っかけ吊るしている。
そうなると一つ目小僧の一本足は樹木の象徴で、「生命の樹」を暗示することになるではないか!
では一つ目の方は何を表しているのだろうか?
世界広しといえども、一つ目を堂々とデザインの中に示しているのは”ピラミッドアイ”ぐらいである。
最近、ギザの丘の三大ピラミッドが墓標ではなく神殿であることが判明してきた。それ自体が神殿であり聖域を示す”象徴三角形”である以上、それは生命の樹その物である。
そして、生命の樹には必ず逆の「死の樹」も存在することになる・・・・!
天照大神と須佐之男の関係は正にそれを象徴し、イエス・キリストとルシファーの関係も同じ。
両者は似ても非なる存在であり物事の両極端。表裏一体だが向く方向は全く逆・・・勿論、覗いている目も違ってくる。
右目が善、左目が悪・・・・それを見極めるには鏡が不可欠。よってピラミッド・アイには二つの意味がある。生命の樹と死の樹である!
人々は一つ目一本足の死の樹(悪魔=荒ぶる神=須佐之男)を退散させる為、贖罪の象徴である棘の葉と、ダビデ家の象徴である目籠を引っかけ、一つ目小僧を追い払い、ケリッポトの難を避けようとしたのである!■ |
1:ろくろ首 |
2:提灯小僧 |
3:天狗 |
4:鬼 |
5:一つ目小僧 |
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6:河童 |
7:九尾の狐 |
8:鵺(ヌエ) |
9:猫又 |
10:龍 |
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11:のっぺら坊 |
12:人面樹 |
13:足洗い屋敷 |
14:狸 |
15:送り拍子木 |
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16:灯りなし蕎麦 |
17:片葉の葦 |
18:おいてけ堀 |
19:落ち葉なしの椎 |
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