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飛鳥昭雄の漫画家人生
第70回 いなか医者
 1975年7月、筆者が25歳の時、『週刊少年ジャンプ』(集英社)の夏の増刊号に『いなか医者』が掲載された。

 これが筆者最初の漫画掲載だった。この時の感動は今も忘れない。

 小学生の頃から漫画を描きはじめ、中学一年生から本格的に漫画家を目指しはじめ、何度かのチャンスを棒に振りながらも諦めず、ついに25歳にして初デビューしたのだから、その感慨はひとしおである。

 担当してくれたのは、当時、『ど根性ガエル』(吉沢やすみ)を担当していた中野和雄氏。後に「ノロカズ」のニックネームで知られ、『1・2のアッホ』(コンタロウ)や『キン肉マン』(ゆでたまご)を生み出し、『月刊フレッシュ・ジャンプ』(休刊)の編集長になる。

 殆どの漫画家が経験していることだが、自分の最初の漫画が送られて来た時、紙に染み込んだインクの匂いを嗅ぐ。

 筆者も例外ではなく、この時の気分ほど爽快なものはない。これまでの苦労が全てこの瞬間に報われるのである。

 『いなか医者』は、当時ファンだった、ちばてつや氏の『ハチのす大将』を自分でも描きたかったからだ。

 確かこれは全く同じ話を描いた2度目の作品で、最初の『いなか医者』は『週刊少年マガジン』(講談社)の懸賞募集に出したが駄目だったので、もう1度最初から同じコマ割りで描きなおしたものを、『週刊少年ジャンプ』(集英社)に送ったものだ。

 確か「手塚賞」に応募したが最終選考まで行ったが駄目で、中野氏が何とかねばって別冊に掲載されたのである。

 編集者と漫画家は二人三脚というが、この理屈を知っていないと、新人としていくら実力があっても漫画家にはなれないし長続きしない。

 なぜなら編集者とはタレントでいえばマネージャーだからだ。

 マネージャーのいないタレントで成功した話が皆無であるのと同じで、漫画家は編集者次第で出世できるかどうかも左右される。

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