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飛鳥昭雄の漫画家人生
第52回 ドラえもん原稿(コピー)
  藤子不二雄の一人、藤本弘氏が肝機能不全で亡くなったのは、平成8年(1996年)9月23日午前2時10分だった。

 パイプ煙草は吸っても酒は殆ど飲まなかった藤本氏が、肝機能を失うのは解せない。

 おそらく、昔、保健所が全国的にやらかした注射器の回し刺しで、肝炎ウィルスに感染させられていたとしか思えない。

 今や残酷描写が当たり前の漫画界にあって、手塚治虫氏同様、藤本氏の存在は欠くことが出来ないものだった。

 アシスタントが後を引き継いでも本物には適わない。今考えても惜しい漫画家を失ったと悔やまれてならない。

 同年9月29日、東京都台東区にある寛永寺輪王殿で葬儀が行なわれたが、物凄い数の参列者が上野公園に至る道までつづいていた。

 大勢のファンに見送られるにはそれなりの人望と人格者でなければならない。

 藤本氏はそういう良質の作品を子供の為に描いた作家だったという証拠である。

 見ると、若い人が圧倒的に多かった。おそらく「ドラえもん」で育った世代なのだ。

 小学館の編集の人間が協力して葬儀を取りし切っていたが、記帳所の大テントにはコロコロ・コミックと学年誌の編集たちが受け持っていた。

 驚いたのは、夫人の意思で香典の類を一切受け取らない姿勢だったことだ。かわりに、訪れてくれた人全員に、この日の為の特別製「ドラえもん金銀テレカ」が配られたのである。

 こういう葬儀は初めてだったので、さすがに「ドラえもん」の作者の葬儀と感心した次第。

 不思議なもので、昭和が去ると同時に美空ひばり、手塚治虫の両巨星が逝ってしまった。

 罰当たりかもしれないが、昭和天皇の崩御ではなく、この二つの巨星が落ちたことの方が昭和が終ったと痛感させられた。

 そこへ藤本氏が逝ってしまったわけだが、この日、安息日ではあったが、筆者は教会を休んで巨星の葬儀へと向った。

 筆者は、生まれた時期が遅くトキワ荘の住人になれなかったが、いつか筆者なりの「ボクなりのトキワ荘物語」を作りたいと考えている。

 トキワ荘の住人で、漫画家の相談相手でライバルでもあった寺田ヒロオ氏と、不思議な縁で筆者が連絡を取り合うようになった矢先、寺田氏が逝ったことがあった。

 それだけに、筆者の心の中には熟知たるものがあるのだ。

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