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飛鳥昭雄の漫画家人生
第51回 プロゴルファー猿原稿(コピー)
  藤子不二雄・A氏といえば、我孫子素雄氏のことである。

 藤本弘氏と一緒にコンビを組み、藤子不二雄を名乗っていたが、ご存知のように藤本氏は既に亡くなっている。

 小生が藤子不二雄が二人と知ったのは大分後の方で、二人でTVに登場しているのを見るまでは知らなかった。

 我孫子氏の作品で、子供の頃に記憶に残っているのは、『シルバークロス』と『ビッグ1』、途中から『プロゴルファー猿』ときて、成人になってからは『まんが道』だった。

 1982年、『コロコロ・コミック』(小学館)の「藤子不二雄賞」に応募したフリスビー漫画が佳作入選し、小学館の近くにある学士会館で初めて藤子不二雄両氏と言葉を交わした。

 それまでも、「手塚治虫賞・赤塚不二夫賞/記念パーティ」の席では、半年ごとに見ていたが、メジャー漫画家同士で集まっている中に入り込むには勇気が要った。

 それが藤子不二雄賞のパーティでは堂々と言葉を交せたのである。

 それ以後も、両氏のアシスタントとは何かと顔を合わすことも多く、特に小学館の本社ビルは9階建てなので、社長室や重役室を除き、7階から2階まで移動するだけで幾つも編集部を渡り歩くことが出来た。

 まして『コロコロ・コミック』編集部には、桃源郷のようなタコ部屋があり、上げ膳据え膳で仕事をしながら大名暮らしを満喫できた。

 彼方此方で様々な賞のパーティもあって、必ず何処かで藤子不二雄両氏のアシスタントと会う機会も多くなったのだ。

 そういう中で、我孫子氏のアシスタントから頂戴したのが、今回の『プロゴルファー猿』の描きかけ原稿のコピーである。

 原稿としては背景も入りベタも塗られて、ホワイト(修正)とトーン貼りが残っている状態である。

 とにかくプロの原稿は綺麗である。

 漫画雑誌がカッパン印刷だった頃、印刷される状態を想定してペン使いを考えたようだが、オフセット印刷になってからは、どんな細い線でも綺麗に出るようになった。

 それはちょうどTVがハイビジョンに変わる今の段階と似たショックを、全ての漫画家に与えたものだった。

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