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飛鳥昭雄の漫画家人生
第33回  虫プロ
 1969年(昭和44年)8月、高校を卒業した後の最初の夏、私は簡単に漫画家になれないことを思い知らされ、アニメーターとしてデッサンをやりなおし、漫画家を目指す決心をする。

 アニメーターの人が聞くと怒りを買いそうだが、当時、手塚治虫氏の影響で、漫画とアニメの壁が薄くなっていたのだ。

 手塚氏自身、漫画の片手間にアニメを描いていて、漫画が正妻で、アニメが愛人と喩えていたほどだった。

 手塚信者だった私は、その影響を受け、アニメと漫画はさほど違いが無いと思い込んでいたのである。

 こうして青雲の気持ちを燃やしながら東京へ赴き、「虫プロ」を訪れたのだ。
池袋から西武線に乗って富士見台駅を降りると、真夏の太陽の光がまぶしく照っていたことを覚えている。

 虫プロが発行していた「鉄腕アトムクラブ」に載っていた「虫プロ周辺の地図」を参考に、駅からしばらく歩くと、見えてきたのは白亜の殿堂だったはずの虫プロの建物だ。

 その頃の虫プロは、手塚氏の放漫経営で傾き始める直前だった。ブロック塀に持たれかかるとグラリと傾いたのを覚えている。

 練馬区に虫プロの建物が建ったのが昭和35年だったので、既に建物は10年近く経っていたから無理は無い。

 入り口の奥に「千一夜物語」のポスターが貼られていたのを覚えている。その年に公開された成人用長編劇場アニメ「アニメラマ」の第2弾だった。

 アポ無しで受付に行き、「アニメーターになりに大阪から来ました」と言うと、それではいらっしゃいと担当者に会わせてもらった。

 高校を卒業してすぐに出てきた私を見て、眼鏡をかけた一見怖そうな人(岩崎正美氏)がいて、私が描いてきた自己流アニメの作品を見てから、見本の契約書を出してくれた。

「これをよく読んで、親の承諾を得てからいらっしゃい」

 そう言われて、頭を下げて部屋から出たが、若い私を見て心配してくれたのか、優しそうな女性がやってきてこう言った。

「殆ど寝ることが出来ないけど大丈夫?」

「気がおかしくなった人もいるのよ」

 私は思わず・・・・である。それに虫プロの塀も傾きかけていたし。
そう思った私は、その日に大阪に戻ってから、二度と岩崎氏のところへ行くことは無かった。

 岩崎氏は、後にサンライズを創業し、「機動戦士ガンダム」を世に送り出した大人物である。

 今、あらためて思い出しても、そんな偉い人物を若干19歳で袖にしたのは、若気の至りとは言え冷や汗ものだった。

 ちなみに、赤鉛筆で岩崎氏が書き込んでくれた賃金を見ると、初任給は全額で2万円である。

 基本的勤務時間は、午前9時半〜午後5時半。

 忠告してくれた女性の話から推測すると、とてもこの時間帯では帰れないのだろう。

 日祭日も「代休」と書いてあり、おそらく出ずっぱりになっただろう。

 事実、虫プロを取上げた書籍を見ると、私の不安は相当に正しかったことになる。

 虫プロが倒産したのは1973年なので、虫プロ訪問の4年後のことである。

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