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飛鳥昭雄の漫画家人生
第57回 鉄腕アトム絵コンテ(コピー)
 手塚治虫氏と筆者は、何度か1メートル以内まで接近したことがある。

 筆者が二十代の頃、大阪の心斎橋にあるデパートで「手塚治虫展」があり、下りのエスカレーターに乗ろうとした時、たまたま手塚氏が乗ってきたのだ。

 その時、筆者は手塚氏の真後ろに乗っていた。これが最初である。

 その後、集英社の「手塚賞」のパーティでは何度も会っており、手塚氏が亡くなる数カ月前にも、東京のホテルオークラで筆者の知り合いを手塚氏に紹介している。

 その男は漫画家志望者で、手塚賞のパーティに連れて行ったのはよかったが、漫画界の常識も世間も知らない男だったため、病身の手塚氏を捕まえて漫画に対する持論を20分間もぶち上げる始末。

 手塚氏の奥様も一緒に尽きそっていたが、そんなことなどおかまいなしだった。

 手塚氏は骸骨のようにやせ細りながらも、一生懸命に答えてくれていたが、筆者が止めて、ようやく手塚氏は車に乗って去っていった。

 この男は、今は東映でデジタル方面の仕事をしている。

 手塚治虫氏は、アニメの絵コンテも自分で描いていたというが、この鉄腕アトムの絵コンテ(直筆のコピー)もそうだと思う。

 なぜなら右上に「鉄腕アトム絵コンテ(先生)」と鉛筆で記されているからだ。

 手塚治虫氏は漫画界の天皇だったことは間違い無い。

 戦後の日本人に勇気を当ててくれた人間は、歌謡界の「美空ひばり」、漫画界の「手塚治虫」、野球界の「長嶋茂雄」の三人だった。

 昭和天皇が崩御した時よりも、手塚治虫が世を去った時の方が、本当に昭和という時代が逝ったと、多くの者が思ったはずだ。

 筆者と手塚治虫氏の関りも、これ以外にも多々あっただけに、今も心のどこかで、手塚治虫を追いかけているところがある。

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