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飛鳥昭雄の漫画家人生
第50回 パーマン原稿(コピー)
 藤子不二雄氏といえば、二人で一人の名前で作品を描いてきたことで有名だが、超高層ビルが建ち並ぶ新宿副都心の近くに仕事場「スタジオゼロ」があった。

 最初のスタジオゼロではなく、藤子氏が引き継いだ、某所テナントビルの3階と4階を占有するスタジオゼロのことだ。

 最初、藤本弘氏と我孫子素雄氏は同じ仕事場だったが、後に藤本氏が出て道路を挟んだマンションに分かれることになる。

 それから何年も二人は同じ藤子不二雄を名乗りつづけるが、1987年、ついにコンビを解消する。

 しかし、その後も両氏は「藤子不二雄賞」等で一緒に行動し、仕事場も近いまま、家も隣同士だった。

 なのに何故コンビを解消したかについてだが、様々な考え方がある中、唯一、間違い無く言えることは彼等二人に関る親戚の存在だ。

 これ以上は同業者として言えないが、その為の平和的解決としてコンビを解消せざるを得なかったと言われている。

 別に、色恋沙汰とか喧嘩別れでは無かったことだけは確かなのだ。

 今回紹介する原稿は、藤子・F・不二雄氏の『パーマン』の主線(おもせん)と背景が入っただけの原稿コピーである。

 これからアシスタントが、ベタを塗り、トーンを貼り、消しゴムを入れていくのだ。

 フキダシにあるネームは、藤本氏の直筆文字であることは言うまでもない。

 1度だけ仕事場でお会いしたが、頭の低い温厚な人物だった。

 1996年、家で机を前にして亡くなられたが、本当に惜しい作家を亡くしたものである。

 兇悪な漫画が横行する中、良質の児童漫画家が減っていく一方である。

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