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飛鳥昭雄の漫画家人生
第47回  漫画賞結果
 1976年度上期の「手塚賞(第11回)」「赤塚賞(第4回)」の発表が行われた。

 私も手塚賞に『太陽着陸』という漫画で応募していた。

 担当の編集記者は中野和雄氏だった。

 中野氏といえば、『キン肉マン』(ゆでたまご)ではパンチパーマの中野さんで、いつもリングサイドに登場し、『1・2のアッホ』(コンタロウ)でもノロカズで登場する名編集者だった。

 彼が私の作品を気に入ってくれて、最終審査まで持ち込んでくれたのである。

 しかし、残念ながら佳作9編を出す乱立にも関らず、私は選外3人に入ってしまう。

 代わって、小林よしのり氏(よしりん)が、この時、手塚賞で佳作を取り、赤塚賞でも佳作を取るという二重受賞の偉業をやってのけている。

 この時の赤塚賞準入選に、渚みつる氏(後の土門トキオ)が入り、佳作に大林薫氏(後の大林かおる)が入るが、両者はやがて「コロコロ・コミック」(小学館)で描くようになる。

 私も、飛鳥昭彦からあすかあきおと変え、「コロコロ・コミック」で彼等と張り合うことになった。

賞に無縁だった私も、1982年に「藤子不二雄賞(第4回)」の佳作を獲得し、彼等と対等の立場に立てたという思いがしたものだった。

 6年の歳月の間、私は中野さんの指導を2年受け、渚氏や大林氏と同じ誌面で競い合ったので、実質的には対等だったかもしれない。

 しかし、私も、渚氏も、大林氏も、少年ジャンプでは鳴かず飛ばずで、特に渚氏の作品は、アンケート調査で最も嫌いな漫画のトップを獲得していた。

 アンケートハガキで、その地位を得た漫画家は浮かばれない。

 後に渚氏は、私の後を追って藤子不二雄賞に応募し、一年半後、佳作入選している。

 大林かおる氏も第2回藤子不二雄賞に佳作入選し、後に「ラジコンボーイ」を発表していく。

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