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飛鳥昭雄の漫画家人生
第40回  表彰状
 昭和57年(1982年)、私が32歳のとき、藤子不二雄賞で佳作に入賞した。

 作品は「おれたちフリスビーBOYS」で、即、「別冊コロコロコミック」(小学館)に掲載されることになる。

 表彰は東京千代田の学士会館で行なわれ、小学館から大勢の人が集まってくれた。

「少年サンデー」の大島記者も来てくれたと思うが、やはり複雑そうな顔だった。

 同じ出版社でも、雑誌が違うと別の会社と同じということが分かったのはこの時だった。

 藤子不二雄両先生も来てくれて挨拶をした。今まで雲の上だった人が、今、自分の目の前にいるという事実は嬉しいことだった。

 本当はこれからが大変なのだが、一応はスタートラインに立てたことを素直に喜んだ。

 同時入賞は、斎藤太朗という人物で、ギャグ漫画を得意とする東京生まれの御仁である。

 共に26歳ということになっているが、私は少し(?)さばをよんでいた。

 当時の少年誌は18歳ぐらいに読者層の年令が上がっていたため、児童相手なら年齢オーバーは漫画家にとればそれほど問題にならない。

 こうして私は、華々しいスポットライトの当たるスタートを切ることになったのだが、この先一年間は、漫画を2作しか描かせてもらえない運命が待ち構えていたのだ。

 しかし、それはあの鳥山明氏も同じで、佳作を取ったものは一年間で漫画家としての実力をつけるため、みっちり修行させられるのが常だったのである。

 いわば、佳作入賞は「青田刈り」と同じで、まだ実のなる前に刈りとって、保温倉庫で本物に熟成発酵させるというわけである。

 しかし、それすら描かせてもらえずに消えていく受賞者も多く、むしろ2作も掲載してくれたことはラッキーだったといえる。

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