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飛鳥昭雄の漫画家人生
第10回  アラジン
 私を漫画家の道に歩ませたアニメーションが、東映動画の制作した「シンドバッドの冒険」(1962年)だった。
 
これを小学6年生の時に学校の講堂(今でいう体育館)で観て、一気にエンターテイメントの世界に身を投じる決心をしたのである。
 理由は「楽しくて、美しくて、素晴らしかった」からである。
 そこで感動を胸に家に帰って描きはじめたのが、「アラジンの冒険」だった。
 
 ところが、この頃の私はアラビアとインドの区別が定かではなく、シンドバッドはインド人とばかり思っていた。理由は頭にターバンを巻いているからである。
 
 とにかく思い込んだら先も見ないで描き始める癖が小学校からあって、「アラジンの冒険」は、1枚のB−4画用紙全体にコマ割りして、ブルーブラックインクを入れた万年筆でガシガシと描いていた。
 
 (故)手塚治虫氏もウォルト・ディズニーの「バンビ」を何度も観て感動し、酷似した漫画を描いているし、(故)藤子・F・不二雄氏も、映画館で観たアニメーションの絵をそのまま描いているので、あの頃は皆殆ど同じだったのだなと思う。
 
「アラジンの冒険」の主要登場人物は、殆ど全て東映動画の「シンンドバッドの冒険」のキャラをそのまま使い、それ以外は私が考えたものだが、この頃に描いたキャラで、プロになってからも使っているものは何も無い。
 
 この頃になると、友達と一緒に外で遊ぶより、家で漫画を描いている方が楽しくなっていた。
 
 今で言うオタクの始まりとは思うが、当時のオタクは今のような他人の作った物を研究したり収集したりする類のものではなく、自らが創造するオタクだったように思う。
 
 また、当時の漫画家志望の子供たちを、ヒキコモリの元祖というような人もいるが、今のヒキコモリとは違い、漫画を描く為に外に出られなかったというだけで、部屋に閉じこもることが目的のヒキコモリとは別だろう。
 
 確かに「アラジンの冒険」はあまりにも稚拙であるが、私にとっては今の自分を決定させた時の作品だったのである。

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