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飛鳥昭雄の漫画家人生
第6回  世界をにぎる男
 昭和39年(1964年)に募集され、翌年春に発表された「第二回少年少女まんが作品の懸賞募集」で入選したのは、若干17歳の高校生だった。

 名前は森田浩光氏で入選作は「世界をにぎる男」というSF漫画である。学生入選者ということでは里中満智子氏につづく快挙である。もはや当時から漫画家デビューは10代になっていたということである。

 デビューについては、20歳前半でギリギリ、それを過ぎればデビューは困難となり、30歳を過ぎれば手遅れもいいところだった。それもそのはずで、当時活躍していた石森章太郎氏や藤子不二雄氏のデビューが高校生だったのだ。

 なのに、入選しても一発花火だけで消えてしまう漫画家が何と多いことか。だからよく漫画界では「入選は安し継続は難し!」というのはそのためだ。 

 現在、何処の漫画雑誌を捜しても森田浩光氏の名前を見つけることは出来ない。

 それもそのはずである。入選以後、彼の漫画を『週刊少年マガジン』の中でさえ見たことが一度も無いからである。あるいは読み切りを載せたことがあったのかもしれないが、私の記憶には全く無い。つまり“一発屋”で消えた入選漫画家の一人だったことになるのだ。

 しかしである、同姓同名かもしれないが、アニメ界に森田浩光なる人物がいる。

 虫プロとも関係が深く、TVシリーズの「鉄腕アトム」や「わんぱく探偵団」では作画(アニメーター)、「千夜一夜物語」(1969年)では原画、「ムーミン」(1969年)では作画、「新ムーミン」(1972年)では作画監督をやっている。

 それどころか、あの普及の名作「宇宙戦艦ヤマト」(1974年)のTVシリーズの原画や、最近ではTBSのアニメ番組の「ゴーゴー五つ子ランド」(2001年)の絵コンテを手掛け、児童図書の世界では子供風のイラスト作家で知られた人物なのだ。

 年齢的にも符合するし、入選した漫画の絵柄も手塚風であることから、漫画界からアニメ界に移転した可能性は充分にある。実際、昔は漫画とアニメの壁は非常に薄く、両方を行き来していたのが手塚治虫氏であり、トキワ荘の住人だった。今を時めく宮崎駿氏も元は漫画家志望で手塚ファンだった。

 そういう中、私はデビューに乗り遅れまいとして、中学生の頃から焦り始めることになるのである。

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