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※本所七不思議
「おいてけ堀」図より
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日本の妖怪
 おいてけ掘
 今回の「本所七不思議」は、七不思議の中で最も有名な「おいてけ掘」である!
 
 日本は川の多い地形で、魚も多かったことから昔から釣人が多かった。それは江戸でも例外ではなく、実際に江戸は低地にあった為、遠浅の入り江や湿地帯が多かった。そのため少し歩けば沼や池が広がっていたのである。
 古典落語にもあるように、前夜の大雨でできた水溜りでも平気で釣糸を垂れる・・・・・それほど江戸では釣人が多かったということだが、子供でも馬の尻尾を糸にして、何処かの掘で釣りをしていたのだ。
 だからこそ「おいてけ掘」のような恐ろしい物語は、他人事で済ますようなものではなかったと思われる。

 本所の近くに葦の葉が深く生い茂る掘があり、まわりに木々が生い茂って昼間でも薄暗くて気味が悪いほどだった。しかし、その掘には沢山の魚が住んでいて、一旦釣れ出すと煙草を吸う暇もなくなるほどとなる。
 この噂はたちまち江戸中に知れ渡り、堀には大勢の釣人が集まって釣糸を垂れるようになった。ところがである、そのうちこの堀に奇妙なことが起きるようになる。

 ある釣人が掘で糸を垂れていて、鮒(ふな)、ウグイ、鮠(はや)、鰻(うなぎ)等を面白いように釣ってしまうのだ。さすがに疲れた釣人は、夕方になったので竿を納めて家に帰ろうとした。その時である、どこからともなく気味の悪い声が聞こえてきたのだ。
 「おいてけぇぇ! おいてけぇぇ〜〜〜っ!」
 それはまるで池の底か地の底から湧いてくるような低い声だった。その直後、釣り上げた魚で一杯のはずの魚篭(びく)が、スウゥ〜と軽く持ち上がるのだ。すると前よりはっきり大きな声で再び釣人に語りかけてくる。
 「おいてけええ、おいてけええ〜〜〜〜!!」
 そこで声の主の言う通り、釣った魚を堀に戻せばよいのだが、人間とは悲しいものである。
 「せっかく時間かけて釣った魚をもったいない・・・誰が置いていくものか」
・・・と耳を貸さず、我が家に向けて一目散に駆け戻ると、生い茂った葦の道で迷子になり、ついには葦の茂みから脱け出すことができなくなってしまうのだ。
 運よく家に帰れても、釣ってきた魚が夜中にパシャパシャ跳ねはじめ、朝になって桶を見ると魚は一匹も無く、周囲を見ると、土間に魚が歩いたと思われる胸ビレや尾ビレの跡がはっきりと残っている・・・・・・。

 そこで人々は、このように囁き合う。
 「あれはきっと川の主の声に違いない」
 「河童の仕業だ」
 「狐の仕業だ」
 そして、いつしかその掘は「おいてけ掘」と名付けられた。この気味の悪い掘のあった場所は、JR錦糸町駅の付近とされるが定かではない。
 
 そこでこの物語の謎解きだが、一番単純な説は、何処かの悪戯者が釣人を騙して、釣った魚を全て奪い取ったというものだ。
確かに最も有り得る話だが、有り得るだけに騙される者も少ないはずだろう。それに、当時でも考えつくような単純な騙し話が、少なくとも本所七不思議に残るはずは無いのである。
 
 むしろ「川の主」「河童」「狐」が声を掛けたという点に注目する必要がある。川の主とは「神」のことである。河童とは「漢波羅(カンパラ)=迦波羅(カンパラ)」が変じたものとされ、ヘブライ密教の「カバラ」からきている。カバラは授かるという意味の神の象徴である。「狐」はコンコン様と呼ばれる通り、稲荷神社の使いであり神である。
 つまり、掘からの声は神からの警告なのである。だから神の声に逆らう者は全て罰を受けるという結末になっているのだ。今流に言えば、自然環境を守る為の人の知恵であるという見方もできそうだが、周囲に自然が山ほど存在する時代にエコロジーはないだろう。

 結局、おいてけ掘の話の構造は以下のようになる。
 「@人が一方的な収穫(欲)を得る→A神が現われる→B人にそれ(欲)を捨てるよう警告する→C人は嫌がって拒否する→D人は神の罰を受ける」
 これと酷似する教訓は『聖書』には山ほどある。いや、基本的に『聖書』は同じ構造といってもいいかもしれない。その中で幾つかを紹介しよう。

 「主は言われた。『命がけで逃れよ。後を振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。』・・・(中略)・・・ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。」(『旧約聖書』「創世記」第19章17〜26節)

 「イエスは言われた。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。』青年はこの言葉を聞き、悲しみながら去った。たくさんの財産を持っていたからである。」(『新約聖書』「マタイによる福音書」第19章21〜22節)

 前者は、ロトの妻が神の警告を聞かず、ソドムに残してきた自分の財産を取りに戻った為に命を失ったことを示し、後者はイエス・キリストから財産を捨てることを警告された青年の物語だが、この後に「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という有名な話につながるのである。

 同様の構造は、ノアに従わなかった人々が滅びた大洪水であり、モーセに従わなかった古代ヘブライ人であり、神の警告を軽視したソロモン王の晩年の話である。
 だが、「おいてけ掘」の物語は、何と言ってもイエスが金持ちの青年に語った話と見事なほどに一致する。特にイエスは魚(人)を捕る名人でもあったと『聖書』にある以上、同じ話と見てもいいだろう。
「彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐ網を捨てて従った。」(『新約聖書』「マタイによる福音書」第4章18〜20節)

 日本の物語に『聖書』など組み込まれていないと思う方の為に敢えて申し上げておきたい。名奉行で知られる大岡越前の大岡裁きで知られる、子供を奪い合う二人の“生みの母”を見極める物語は、『旧約聖書』のソロモン王の記述に記された物語のコピーである。

 「王は命じた。『生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ。』生きている子の母親は、その子を哀れに思うあまり、『王様、御願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないで下さい。』と言った・・・(中略)・・・『この子を生かしたまま先の女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母親である。』」(『旧約聖書』「列王記」第3章25〜27節)

 大岡裁きは江戸文化が生み出した一つの創作だが、その中にもちゃんと『聖書』が入っているのである。

1:ろくろ首 2:提灯小僧 3:天狗 4:鬼 5:一つ目小僧
6:河童 7:九尾の狐 8:鵺(ヌエ) 9:猫又 10:龍
11:のっぺら坊 12:人面樹 13:足洗い屋敷 14:狸 15:送り拍子木
16:灯りなし蕎麦 17:片葉の葦 18:おいてけ堀 19:落ち葉なしの椎

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