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※本所七不思議
「片葉の葦」図より
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日本の妖怪

片葉の葦(あし)
 今回の『本所七不思議』は、「片葉の葦(あし)」である!
 徳川時代の初期から、江戸は相当な湿地帯で、海岸線も随分と内陸に入りこんでいた。品川では汐干狩りができたほどで、両国橋近くにあった入堀には一面に葦が群生していた。
 今回の七不思議は、そこに生える葦が不思議なことにどれも片側にしか葉が出なかったという怪奇を題材にしている。

 昔、亀沢町にお駒という美しい娘がいた。気立てがよくて優しく上品で、誰からも好かれ、両親から大切に育てられていた。そんなお駒に目をつけたのが、どうしようもないならず者で知られる留蔵だった。

 留蔵はお駒の美貌に一目ぼれし、どうしても自分のものにしようと日柄一日中、家の周りを徘徊し、お駒が外に出てくればその後を執拗につけまわす。
そんなある日、母親に用事を頼まれてお駒は遠くまで出かけることになり、暗くなってから葦の生い茂る堀にそった道を一人で家へ急いでいた。そこは大橋(現在の両国橋。場所は現在と異なる)の北側で、駒止(こまどめ)掘という小さな堀だった。

 そこへ現われたのが留蔵である。留蔵はお駒を捕まえるとそのまま押し倒し、自分の欲求を満足させようとしたが、お駒に声を上げられた上に抵抗されたことで頭に血が上ってしまう。
 必死の思いで留蔵から逃れたお駒を追いかけ、憎さ百倍で背後からヒ首(あいくち)で襲いかかり、お駒を刺し殺してしまうのである。留蔵はそれだけでは飽き足らず、お駒の片側の腕と足を切り落とした挙句、ザンブと躯(むくろ)を駒止堀の底へと沈めてしまう。
 そんなことがあった後、この堀に生える葦という葦は全て、どういうわけか片方しか葉が伸びない片葉のない葦ばかりとなったのである。やがてこの怪奇現象を知った留蔵は、狂い死にしてしまったという陰惨な因縁話が今回のテーマだ。
 
 学者や研究者の話では、葦が片葉になるのは不思議でもなんでも無く、葦の葉は、常に同じ方向から風が吹くような場所では、風の吹いてくる方に葉が生えなくなり、反対側に偏ってしまうことがあるという。葦に限らず、木についても同じような現象もあり、木も常に同じ方向から強い風を受けつづけると、その方向には枝が生えなくなって反対側に偏るらしい・・・・と、これでお終い・・・・・・とはならない。じつは今も本所の風は常時同じ方向から吹くわけではないし、木の枝も生えなくなるほどの強風がつづくわけでもない。
 
 そもそも、この七不思議の主役は「葦」である。言いかえれば、なぜ葦なのかということだ。
 葦は全国の、湖、沼、河川、ため池等の水域、湿地帯に生育する見慣れた植物で、特に群生すると鳥類や魚類等の住処、産卵場所、稚魚の成育の場となる。更に葦は水質の浄化、護岸の保護として役立っている非常にありがたい植物なのだ。
 イネ科の多年草で、地下茎を通して群生し、稈は垂直に伸びて硬く中空である。その長さは2、3メートルもあり、夏には花が咲いて、秋から冬にかけて枯れる為に刈り取られる。刈取ると葦簾(よしず)として利用されている。

 また、葦といえば「人間は考える葦である」で有名なパスカルのことが避けられない。パスカルは『パンセ』の中で人間を葦にたとえながらこう語っている。
 「人間は一本の葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である・・・・・・」
 折れやすい葦は、確かに人間の弱さを象徴するに相応しいだろうがが、なぜよりによって葦なのか。

 じつは『パンセ』がキリスト教弁証論として構想された文章と知る人は、日本では果たしてどれだけいるだろう。キリスト教への懐疑論者や無神論者に対し、キリスト教の正しさを論証することがパスカルの目的だったのだ。
 何と、葦は『聖書』の中で何度も登場してくる。特に葦とイエス・キリストは深い意味があるのだ。

 「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(『新約聖書』「マタイによる福音書」第12章20節)
 「茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前でひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した。」(『新約聖書』「マタイによる福音書」第27章29節)
 「また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。」(『新約聖書』「マタイによる福音書」第27章30節)
 
 更に言えば、当然だが『聖書』はキリスト教の正典(カノン)である。この「カノーン」というギリシア語は尺度・規準という意味がある。ヘブライ(ヘブル)語ではこれを「カーネー」と言い、“葦“のことなのだ!!
事実、旧約聖書の時代、人々はまっすぐな葦の茎を「竿尺」として用い、「測り竿」の意味にも使った。ここから「尺度」「規準」という意味が出て、『聖書』がキリスト教のカノンと呼ばれたのだ。

 それに葦で最も有名なのは、モーセが海を割って渡った場所が、“葦の海”と呼ばれる紅海だったことだ。
「神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。」(『旧約聖書』「出エジプト記」第13章18節)

 さて最後の謎解きだが、なぜ葦が片側しか葉を結ばなかったのかということだ。葦が聖書学的に尺度であり、棒(あるいは杖)を示す王の象徴でもある。王とは絶対神のことだ。
 その神が尺度の片側しか葉(命)を認めない・・・・・だから何も悪くないお駒に象徴される血が付きまとい、留蔵の悪が罰となって我身に戻る因果応報となる。それは留蔵の死で示されている。

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。・・・・(中略)・・・・・それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ』・・・・・(中略)・・・・・こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命に預るのである。」(『新約聖書』「マタイによる福音書」第25章31〜46節)

 このように、「本所の七不思議」は全て、『聖書』を大前提に構成されている。誰が音頭を取って構成し、いかにも自然発生的に民から波及したことを演出したかは言わずとも分かるであろう。これらの話は全て寺社仏閣の中枢を発信源に広まっていったのである。

1:ろくろ首 2:提灯小僧 3:天狗 4:鬼 5:一つ目小僧
6:河童 7:九尾の狐 8:鵺(ヌエ) 9:猫又 10:龍
11:のっぺら坊 12:人面樹 13:足洗い屋敷 14:狸 15:送り拍子木
16:灯りなし蕎麦 17:片葉の葦 18:おいてけ堀 19:落ち葉なしの椎

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1:ろくろ首
2:提灯小僧
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5:一つ目小僧
6:河童
7:九尾の狐
8:鵺(ヌエ)
9:猫又
10:龍
11:のっぺら坊
12:人面樹
13:足洗い屋敷
14:狸
15:送り拍子木
16:灯りなし蕎麦
17:片葉の葦
18:おいてけ堀
19:落ち葉なしの椎
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